2015年01月16日
阪神・淡路大震災から、20年。
明日は、2015年1月17日。阪神淡路大震災から、20年。
未明に大きな揺れを感じたその時、まだ生まれて6ヶ月にもなっていなかった息子をかばうように目覚めた朝。
その日は娘が兵庫県立こども病院で入院し手術を受ける日だったので、”食事をさせず、水分も控えて病院に来るように。”と、お医者様から言われていました。
半壊になった主人の実家で、水道やガスや電気が止まっていた状態の中で、それでも、そんな中でも、”起きてきた娘に、何をどれくらい飲ませることが出来るんだろう...。”と、うろたえていた私がいました。(こども病院も大きな被害にあっていたため、娘の手術は後日に延期になりました。)
”あの日”から、いろんなことがありすぎて、心だけでなく身体がオーバーヒートしてから、20年が経ちました。
”あの日を区切りに、失ったものと、得たもの”
”若いうちの苦労は、買ってでもせよ。”ということわざがあるけれど...。
それって、苦労ではなくて、”若いうちの努力は、買ってでもせよ。”っていうことなんじゃないかな...と、私は思っています。
”天災に由来する苦労”にあったことがある人は、その怖ろしさにずっと苦しみ続ける部分を抱えているから、どうしても、苦労を前向きにとらえることが出来ません。
それでも、やっぱり、”前向きに努力していきたい。”と思うのは、
どんな時でも前向きに生きて、努力して、
日常の日々を向上することを楽しみながら生きている先輩がいて、
そんな方々を尊敬することが出来て、
見習いたいと思える自分がいるからなんだろうな...と、
思います。
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未明に大きな揺れを感じたその時、まだ生まれて6ヶ月にもなっていなかった息子をかばうように目覚めた朝。
その日は娘が兵庫県立こども病院で入院し手術を受ける日だったので、”食事をさせず、水分も控えて病院に来るように。”と、お医者様から言われていました。
半壊になった主人の実家で、水道やガスや電気が止まっていた状態の中で、それでも、そんな中でも、”起きてきた娘に、何をどれくらい飲ませることが出来るんだろう...。”と、うろたえていた私がいました。(こども病院も大きな被害にあっていたため、娘の手術は後日に延期になりました。)
”あの日”から、いろんなことがありすぎて、心だけでなく身体がオーバーヒートしてから、20年が経ちました。
”あの日を区切りに、失ったものと、得たもの”
”若いうちの苦労は、買ってでもせよ。”ということわざがあるけれど...。
それって、苦労ではなくて、”若いうちの努力は、買ってでもせよ。”っていうことなんじゃないかな...と、私は思っています。
”天災に由来する苦労”にあったことがある人は、その怖ろしさにずっと苦しみ続ける部分を抱えているから、どうしても、苦労を前向きにとらえることが出来ません。
それでも、やっぱり、”前向きに努力していきたい。”と思うのは、
どんな時でも前向きに生きて、努力して、
日常の日々を向上することを楽しみながら生きている先輩がいて、
そんな方々を尊敬することが出来て、
見習いたいと思える自分がいるからなんだろうな...と、
思います。
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タグ :阪神・淡路大震災
2015年01月16日
”居心地のいい場所”を守ること、築くこと。
昨日は、雨。
年末年始を終え、始まった年明けの職場が忙しかったことから凝り固まっていたようなずっしり重い疲れが、終日ひたすらのんびり過ごして、ようやく和らいだような気がします。
肩に力が入ったまま、ずっと過ごしていると、溜まった疲れがなかなか取れないことを痛感するようになって、”昔の若い頃とは、違うんだよ。”と、自分に言い聞かせて、苦笑いしてしまう。
昨年秋からの私のテーマであり、目標でもある”憩い”について考えてみると、無意識に頑張ってしまっていることをうまくセーブして、”上手に肩の力を抜いて、生きること”なのだろうな...と、思います。
そのためには、”断捨離”にも通じていることですが、”自分の力量とか許容範囲をしっかり見極めて、それ以上に無理をして背負いすぎない。”ことが大切なんだろうな...とも、思います。
ひとには、みんなそれぞれに”自分らしい生き方”があって、それぞれに適したペースがあって、目標がある。
そして、それは、それぞれの立場や年齢によって違う、否応のない制約があることも多いのだろうと思います。
それらを、きちんと認識し理解したうえで、必要以上に諦めることもなければ、無理をして背負いすぎることもない。
もちろん、今までの子育て中には、”子供たちがあえて自分で限界を作って、努力することすらあきらめることのないように、まず親が先に、一生懸命頑張っている姿を見せないといけない。”という想いが先に立って、”多少の無理も、努力のうち”と頑張っていたところがありました。
でも、子供たちが家を出て、それぞれが現在それぞれの日常を別のところで過ごし、そこで毎日の日々を頑張っているようになると、”実家”とか”ふるさと”という場所には、やはり、”自分が訪れた時にほっとするような、穏やかでやさしいもの”を求めてしまうものなのだろうと、思います。
自分にとって、”居心地のいい場所”を守ること、築くこと。
それは、停滞するとか、さぼることとは違う、”上手に肩の力を抜いて、背負っているものを整理して身軽になって、日常を自然体で楽に過ごせるように意識する”こと。
そうすることによって、子供たちが安らぎを求めて帰って来た時に、日々を精一杯頑張っていないからこそ生まれてくる若干のゆとりを持って、笑顔で迎えてあげることができる。
もしかしたら、昔の人が”隠居”という形で、代替わりをして、世代交代をする時の意識に似ているのかもしれない...と、なんとなく、思うのです。
年末年始を終え、始まった年明けの職場が忙しかったことから凝り固まっていたようなずっしり重い疲れが、終日ひたすらのんびり過ごして、ようやく和らいだような気がします。
肩に力が入ったまま、ずっと過ごしていると、溜まった疲れがなかなか取れないことを痛感するようになって、”昔の若い頃とは、違うんだよ。”と、自分に言い聞かせて、苦笑いしてしまう。
昨年秋からの私のテーマであり、目標でもある”憩い”について考えてみると、無意識に頑張ってしまっていることをうまくセーブして、”上手に肩の力を抜いて、生きること”なのだろうな...と、思います。
そのためには、”断捨離”にも通じていることですが、”自分の力量とか許容範囲をしっかり見極めて、それ以上に無理をして背負いすぎない。”ことが大切なんだろうな...とも、思います。
ひとには、みんなそれぞれに”自分らしい生き方”があって、それぞれに適したペースがあって、目標がある。
そして、それは、それぞれの立場や年齢によって違う、否応のない制約があることも多いのだろうと思います。
それらを、きちんと認識し理解したうえで、必要以上に諦めることもなければ、無理をして背負いすぎることもない。
もちろん、今までの子育て中には、”子供たちがあえて自分で限界を作って、努力することすらあきらめることのないように、まず親が先に、一生懸命頑張っている姿を見せないといけない。”という想いが先に立って、”多少の無理も、努力のうち”と頑張っていたところがありました。
でも、子供たちが家を出て、それぞれが現在それぞれの日常を別のところで過ごし、そこで毎日の日々を頑張っているようになると、”実家”とか”ふるさと”という場所には、やはり、”自分が訪れた時にほっとするような、穏やかでやさしいもの”を求めてしまうものなのだろうと、思います。
自分にとって、”居心地のいい場所”を守ること、築くこと。
それは、停滞するとか、さぼることとは違う、”上手に肩の力を抜いて、背負っているものを整理して身軽になって、日常を自然体で楽に過ごせるように意識する”こと。
そうすることによって、子供たちが安らぎを求めて帰って来た時に、日々を精一杯頑張っていないからこそ生まれてくる若干のゆとりを持って、笑顔で迎えてあげることができる。
もしかしたら、昔の人が”隠居”という形で、代替わりをして、世代交代をする時の意識に似ているのかもしれない...と、なんとなく、思うのです。