2011年02月04日
節分の日の風景 2011 (2/3:住吉大社)
昨日は、朝から所用で大阪へ。
参拝に立ち寄った住吉大社では、厄除けぜんざいの振る舞いがありました。
私の実家と言っても、私が結婚してから建て替えられているので、そこには当然昔の私の部屋は残っていないし、そこにある生活空間は全く勝手がわからない。なにより、私が家を出てから室内でネコを飼い始めたのですが私は猫に対してアレルギーがあるようで、ふだん猫を入れない和室に泊めてもらっても症状がでるため、自宅には長居ができないという事情があります。
そのため、実家に立ち寄るよりも、小さい頃に遊んだ公園やいろいろな思い出が残る神社を訪れている時の方が、なつかしい思い出にひたって、ほっとできるような気がします。
節分の日の、住吉大社の風景から。
いただいた温かいぜんざいはほんのりした甘さで、自由にいただけるほうじ茶も用意されていました。
もし、ずっとこの街で住み続けていたとしたら気がつかなかったかもしれない、思い出の風景のやさしさとなつかしさ。
そんなものたちに包まれて散策していた、節分の日でした。
<住吉大社・住吉公園関係の過去ログ>
・秋の住吉公園散策 2010.10.3
・住吉大社 参拝 2010.10.3
・住吉公園の風景 2010.5.22
<住吉大社の所在地>
◇大阪市住吉区住吉2丁目9-89
参拝に立ち寄った住吉大社では、厄除けぜんざいの振る舞いがありました。
私の実家と言っても、私が結婚してから建て替えられているので、そこには当然昔の私の部屋は残っていないし、そこにある生活空間は全く勝手がわからない。なにより、私が家を出てから室内でネコを飼い始めたのですが私は猫に対してアレルギーがあるようで、ふだん猫を入れない和室に泊めてもらっても症状がでるため、自宅には長居ができないという事情があります。
そのため、実家に立ち寄るよりも、小さい頃に遊んだ公園やいろいろな思い出が残る神社を訪れている時の方が、なつかしい思い出にひたって、ほっとできるような気がします。
節分の日の、住吉大社の風景から。
いただいた温かいぜんざいはほんのりした甘さで、自由にいただけるほうじ茶も用意されていました。
もし、ずっとこの街で住み続けていたとしたら気がつかなかったかもしれない、思い出の風景のやさしさとなつかしさ。
そんなものたちに包まれて散策していた、節分の日でした。
<住吉大社・住吉公園関係の過去ログ>
・秋の住吉公園散策 2010.10.3
・住吉大社 参拝 2010.10.3
・住吉公園の風景 2010.5.22
<住吉大社の所在地>
◇大阪市住吉区住吉2丁目9-89
昨日の所用は、楽しいお出かけなのではなく、父の入院につきあうためです。
今回は、去年のような急に倒れての検査入院という深刻なものではなく、外科的な処置が済めば日にち薬で様子を見て退院できるとわかっているため、気分的には楽なのですが、やはり、うれしいお出かけではありません。
実家の母には、事前に作っておいたポトフとごまめ(たっぷり豆が入ったポトフと、カタクチイワシの小魚ということでごまめ。一応、節分メニューもどきのつもりです。)のお総菜を届けて、「父の入院中は無理して店を開けようとせず、一緒に休養するつもりでのんびりするように。母まで倒れられたら、私にはどうしようもないからね。」と言うしかなく、急な何かに対しての対応は多少無理をしてもできるけれど、正直言って、日常的なものへのフォローには限界があります。
”親離れ子離れ”という部分で言えば、年相応にあちこち弱っている部分を抱える主人の母や私の実家の両親にとっての子供の立場として、それぞれに対してどこまでフォローができるのか。
無理を重ねているうちに、それが相手にとってはあたりまえになってしまって、それでも不満が出るようになったら、反対にこちらがつぶれてしまう。
”出来るものならしてあげたい事と出来る事の、限界とバランス”
それは、本当に、難しい。
「私の出勤日を急に変えてもらうのは職場にも同僚にも迷惑がかかるので、緊急の場合はお願いできるけど、そうでなければ、仕事が休みの日しか私は動けないよ。」
冷たいようだけれど、そう言うしかない。
それでも、そんな気分でも、父の入院手続きを終え、店にいる母に連絡を入れた後、住吉大社にお参りをして、南海電車で難波まで出て、少し近辺を歩いて、梅田に出てお昼ご飯を食べて買い物をして、JRに乗って帰宅した。
たぶん、”所用って何か”ということにあえて触れずに、昨日の記録として、”大阪の実家へ行き、住吉大社にお参りをして、ぜんざいをいただいて、ミナミを歩いて、梅田でランチを食べて買い物をして、帰宅した。”という記事にまとめてしまえば、楽しい1日だったんだなぁ…という印象になるのだと、思う。
私にとってのブログって、結局、”自己満足の記録”だと思っているので、それでも良かったのだけれど、あえて、この追記も書いてみました。
でも、うれしくないこと、考えるとつらいこと、そういうことにはあえて触れずに、楽しい部分だけにスポットをあてて考える事によって、自分を元気づけたくなるような、そんな気持ち。
たぶん、そういう気持ちって、誰にもあるような、なんとなくそんな気がします。
今回は、去年のような急に倒れての検査入院という深刻なものではなく、外科的な処置が済めば日にち薬で様子を見て退院できるとわかっているため、気分的には楽なのですが、やはり、うれしいお出かけではありません。
実家の母には、事前に作っておいたポトフとごまめ(たっぷり豆が入ったポトフと、カタクチイワシの小魚ということでごまめ。一応、節分メニューもどきのつもりです。)のお総菜を届けて、「父の入院中は無理して店を開けようとせず、一緒に休養するつもりでのんびりするように。母まで倒れられたら、私にはどうしようもないからね。」と言うしかなく、急な何かに対しての対応は多少無理をしてもできるけれど、正直言って、日常的なものへのフォローには限界があります。
”親離れ子離れ”という部分で言えば、年相応にあちこち弱っている部分を抱える主人の母や私の実家の両親にとっての子供の立場として、それぞれに対してどこまでフォローができるのか。
無理を重ねているうちに、それが相手にとってはあたりまえになってしまって、それでも不満が出るようになったら、反対にこちらがつぶれてしまう。
”出来るものならしてあげたい事と出来る事の、限界とバランス”
それは、本当に、難しい。
「私の出勤日を急に変えてもらうのは職場にも同僚にも迷惑がかかるので、緊急の場合はお願いできるけど、そうでなければ、仕事が休みの日しか私は動けないよ。」
冷たいようだけれど、そう言うしかない。
それでも、そんな気分でも、父の入院手続きを終え、店にいる母に連絡を入れた後、住吉大社にお参りをして、南海電車で難波まで出て、少し近辺を歩いて、梅田に出てお昼ご飯を食べて買い物をして、JRに乗って帰宅した。
たぶん、”所用って何か”ということにあえて触れずに、昨日の記録として、”大阪の実家へ行き、住吉大社にお参りをして、ぜんざいをいただいて、ミナミを歩いて、梅田でランチを食べて買い物をして、帰宅した。”という記事にまとめてしまえば、楽しい1日だったんだなぁ…という印象になるのだと、思う。
私にとってのブログって、結局、”自己満足の記録”だと思っているので、それでも良かったのだけれど、あえて、この追記も書いてみました。
でも、うれしくないこと、考えるとつらいこと、そういうことにはあえて触れずに、楽しい部分だけにスポットをあてて考える事によって、自分を元気づけたくなるような、そんな気持ち。
たぶん、そういう気持ちって、誰にもあるような、なんとなくそんな気がします。
Posted by Dreamer at 08:45
│お出かけ (大阪)