2016年03月11日

”憩えるひと”であること

東日本大震災から、5年。






グルメ記事の過去ログを、”憩いの場所と憩いの時間”という視点で振り返ってまとめる作業をしていると、いい意味で印象が強く残っている思い出の中には、やっぱり、”憩えるひと”の存在があるような気がします。


家族や友人知人などの”憩えるひと”と、過ごした場所と時間。

訪れた人がそこで過ごす時間を憩えるものであるように気遣ってくれる、”憩えるひと”が待ってくださっているところ。


そして、意外と気がつかないものなのだけれど、実は何よりも大切なのかもしれないと思うのは、”自分自身が、その場所で、その時間に、(心身ともに)憩える状態であること”なのだということ。

どんな場所に行こうと、どんなひとが一緒であろうと、どんなひとが待っていようと、逆に自分が待っている立場であろうと、結局、そこで憩いを感じるかどうかっていうのは、自分の主観的なものになる。



”阪神淡路大震災による影響でいろいろな生活が激変した後、なにげない日常がどんなに大切なものなのかを痛感しながら、ただ毎日の日々を一生懸命生きていた日々が過ぎていき、<憩う>という想いを意識できるようになったのは、いったい、いつ頃からだったんだろう...”ということを、過去ログの中に残っている思い出の数々を振り返りながら、ふと、考えていたりもします。



どんなに大きな傷を負ったとしても、時間の流れの中で心身の痛みをゆっくりと癒していきながら、生き続けて、歩み続けて。

そんな日々の中で、私の心の支えになっていたのは、当時まだ小さかった子供たちを守り、育てていくためには、自分が落ち込んでいる訳にはいかないという使命感だと思っていたのですが、そんな子供たちが成長し、成人し、社会人となり、大学生となった今、振り返ってみれば、それは”使命感”というよりはむしろ、”希望”というものに近い感情だったのかもしれません。



今日という日に、あらためて思うこと。



”なにげない日常生活の、ささやかな幸せをいつくしみながら、毎日を過ごしていきたい”という、私自身の願い。

そして、親元を離れて、それぞれ自分の人生を生きて、未来に向けて歩み始めている子供たちに対して望むことは、”人生にはいろんなことがあるけれど、どんなささやかなことでもいいから自分自身が心から憩えるものを大切にして生きて、どんな時でも、自分自身が憩える場所と時間を、そして、”希望”を見つけることができるようでありますように...”という願い。


”そのために、私が出来ることってなんだろう?”と、考えてみました。

”未来を担って歩み続ける子供たちにとっての人生の先輩として、彼らが憩える場所の管理人であり、憩いの時間のプロデューサーであること。あり続けること。”


そして、たぶん、それは”故郷を守る人”すべての人の、目標であり、課題なのかもしれない...と、なんとなく、思うのです。




  
タグ :憩う希望


Posted by Dreamer at 13:32日常の雑感My Garden