2016年08月16日
お盆休み明けの雑感
今日は、8月16日。
私がまだ幼かった頃は、年末年始とかお盆ってどこの職場もお店も一斉にお休みで、田舎に親戚が集まって、お墓参りをして、にぎやかにみんなで食事をして...という風景が、あたりまえのようにあったのだけれど、今では、いわゆる”お盆休み”という形でみんなが同じ時期にお休みを取れるのは、けっしてあたりまえではなくなっています。
昨日からまた、早朝に出勤する主人と共に、私もまた少しずつ、日常のペースに戻しています。

お盆前、職場が忙しいままずっと過ごしていたので、見ないふりしていた家のあちこちの気になるところ。
レンジまわり、換気扇をはじめ、通常の掃除では行き届かない、こまごましたところ。
そういうところを、出来るだけ朝の涼しいうちに掃除したり、片付けたりすると、やはり、気持ちがいいです。
本当に気がついていないことって、意識していない(できない)から見えていないので、けっしていいことではないけれど、自分では気が楽ともいえます。
気がついてるけど、あえて、見ないふりして、”そのうちになんとかしよう...
”と、先延ばしにしていると、ずっと気になったまま、引きずっている状態になる。
完璧でなくていいから、自己満足できるレベルまで、気がついた時に、その都度クリアしておく、その努力は、誰のためでもない、明日の自分が少しでも楽になるため。
昨日の朝、汗だくになってキッチンの掃除をしながら、”これって、学生時代に苦手科目や苦手な分野の勉強をしている時の感覚に似ているな...。”と、思っていました。
同じように、ずっと”断捨離”を意識して、”やらなくちゃ...進めなくちゃ...”と半ばあせったような心境でいたころは、かえって進まなかったけれど、”完璧でなくていいから、自己満足できるレベルまで、気がついた時に、その都度クリアしておく、その努力は、誰のためでもなく、明日の自分が少しでも楽になるため。”と思うと、本当に少しずつですが、”断捨離”の方向へ向かっているような気がします。
そして、今回のお盆休みを自宅でのんびり過ごしたことによって、今更ながら...ですが、お盆というものも、”先祖や亡くなった近親者の霊を、生前に過ごした家に迎えて供養し、また、本来在るべき場所へ送り出す”という、過去のための行事だけでなく、同時に、”この家から巣立って独立し、新しい自分の家を築いている子供たちやその次の世代を故郷にある実家という場所に迎えて歓待し、またそれぞれの本来在るべき場所へ送り出す”という、未来へ向かう行事だったのかもしれないな...と、思うようになりました。
『 真の発見の旅とは、
新しい景色を探すことではない。
新しい目で見ることなのだ。
― マルセル・プルースト ― 』
今年のお盆休みは、遠出することなく、自宅でのんびり過ごしたけれど、それもまた、自分自身の内面にむかいあうための大切な時間であり、”発見の旅”だったのかもしれないと、思うのです。
私がまだ幼かった頃は、年末年始とかお盆ってどこの職場もお店も一斉にお休みで、田舎に親戚が集まって、お墓参りをして、にぎやかにみんなで食事をして...という風景が、あたりまえのようにあったのだけれど、今では、いわゆる”お盆休み”という形でみんなが同じ時期にお休みを取れるのは、けっしてあたりまえではなくなっています。
昨日からまた、早朝に出勤する主人と共に、私もまた少しずつ、日常のペースに戻しています。

お盆前、職場が忙しいままずっと過ごしていたので、見ないふりしていた家のあちこちの気になるところ。
レンジまわり、換気扇をはじめ、通常の掃除では行き届かない、こまごましたところ。
そういうところを、出来るだけ朝の涼しいうちに掃除したり、片付けたりすると、やはり、気持ちがいいです。
本当に気がついていないことって、意識していない(できない)から見えていないので、けっしていいことではないけれど、自分では気が楽ともいえます。
気がついてるけど、あえて、見ないふりして、”そのうちになんとかしよう...

完璧でなくていいから、自己満足できるレベルまで、気がついた時に、その都度クリアしておく、その努力は、誰のためでもない、明日の自分が少しでも楽になるため。
昨日の朝、汗だくになってキッチンの掃除をしながら、”これって、学生時代に苦手科目や苦手な分野の勉強をしている時の感覚に似ているな...。”と、思っていました。
同じように、ずっと”断捨離”を意識して、”やらなくちゃ...進めなくちゃ...”と半ばあせったような心境でいたころは、かえって進まなかったけれど、”完璧でなくていいから、自己満足できるレベルまで、気がついた時に、その都度クリアしておく、その努力は、誰のためでもなく、明日の自分が少しでも楽になるため。”と思うと、本当に少しずつですが、”断捨離”の方向へ向かっているような気がします。
そして、今回のお盆休みを自宅でのんびり過ごしたことによって、今更ながら...ですが、お盆というものも、”先祖や亡くなった近親者の霊を、生前に過ごした家に迎えて供養し、また、本来在るべき場所へ送り出す”という、過去のための行事だけでなく、同時に、”この家から巣立って独立し、新しい自分の家を築いている子供たちやその次の世代を故郷にある実家という場所に迎えて歓待し、またそれぞれの本来在るべき場所へ送り出す”という、未来へ向かう行事だったのかもしれないな...と、思うようになりました。
新しい景色を探すことではない。
新しい目で見ることなのだ。
― マルセル・プルースト ― 』
今年のお盆休みは、遠出することなく、自宅でのんびり過ごしたけれど、それもまた、自分自身の内面にむかいあうための大切な時間であり、”発見の旅”だったのかもしれないと、思うのです。
”会いたい人には、会いに行こう。
行きたいところには、出かけて行こう。
聞きたい音楽は、聴きに行こう。
そのためには、自分自身が健康で元気でいないといけないと、思う。”
ずっと、そういうふうに、自分に言い聞かせ続けてきたけれど...。
自分が出かけて行く側ではなく、自分が迎える側であっても、
訪れてくる、帰ってくる大切な人たちを気持ちよく迎えるために、
” そのためには、自分自身が健康で元気でいないといけないと、思う。”
それもまた、今更ながら...ですが、今回のお盆休みを経て、実感したことです。
主人の両親も、私の両親も、いわゆる本家筋ではなく、お正月やお盆には故郷へ、本家へ、帰る側、伺う立場として長年過ごしてこられました。
そして、故郷の本家が伯父伯母の世代から従兄世代に代替わりしていくにつれ、自分たちは帰る側、訪れる側であるというより、むしろ、そういう節目には自分たちの子供や次の世代を迎える側なのだということを、とまどいながら、受け入れていたように思えます。
”完璧でなくていいから、自己満足できるレベルまでクリアしておく、その努力は、誰のためでもない、明日の自分が少しでも楽になるため。”
ぎこちなくでもいいいから、少しずつ自分の意識を変えることも、明日の自分のためなのだろうな...と、思うのです。
行きたいところには、出かけて行こう。
聞きたい音楽は、聴きに行こう。
そのためには、自分自身が健康で元気でいないといけないと、思う。”
ずっと、そういうふうに、自分に言い聞かせ続けてきたけれど...。
自分が出かけて行く側ではなく、自分が迎える側であっても、
訪れてくる、帰ってくる大切な人たちを気持ちよく迎えるために、
” そのためには、自分自身が健康で元気でいないといけないと、思う。”
それもまた、今更ながら...ですが、今回のお盆休みを経て、実感したことです。
主人の両親も、私の両親も、いわゆる本家筋ではなく、お正月やお盆には故郷へ、本家へ、帰る側、伺う立場として長年過ごしてこられました。
そして、故郷の本家が伯父伯母の世代から従兄世代に代替わりしていくにつれ、自分たちは帰る側、訪れる側であるというより、むしろ、そういう節目には自分たちの子供や次の世代を迎える側なのだということを、とまどいながら、受け入れていたように思えます。
”完璧でなくていいから、自己満足できるレベルまでクリアしておく、その努力は、誰のためでもない、明日の自分が少しでも楽になるため。”
ぎこちなくでもいいいから、少しずつ自分の意識を変えることも、明日の自分のためなのだろうな...と、思うのです。
Posted by Dreamer at 07:26
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